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最悪の作戦でも果敢に戦った将軍 宮崎繁三郎

―地獄の作戦―

 太平洋戦争から70年近くが経過した現在でもなお、最も無謀で杜撰だったと批判される作戦があった。
「インパール作戦」。日本陸軍の牟田口廉也中将によって立案されたこの作戦に従い、当時ビルマに展開していた第15軍とインド国民軍はイギリス軍撃滅を目指してインパールへ約9万人もの兵力を派遣した。しかし補給の不備とジャングルの複雑な地形、そして制空権の喪失が災いして、作戦は3万人近い兵を失う惨敗に終わってしまった。
 今でも最悪の作戦として槍玉に上げられることも多いインパール作戦ではあるが、この圧倒的不利な状況下でも果敢に戦い、後世に名を残した将軍も存在していた。その将軍こそが、宮崎繁三郎中将である。
 1892年1月に岐阜県の厚見群(現在の岐阜市周辺)で生まれた宮崎は、岐阜中学(岐阜県立岐阜高等学校)を卒業すると1912年に陸軍士官学校へと進学。平凡な成績ながらも無事に卒業を果たすと、在学中に学んだ参謀教育を生かして参謀本部の一員として各部署で働いた。時には歩兵部隊の隊長や教官となることもあったがやはり内勤に就くことが多く、あまり戦場に赴くことのない日々を送っていたことには変わりなかった。
 しかしそんな宮崎もついに大戦を経験する日がやってきた。それは1939年に勃発したノモンハン事件であった。

―ノモンハン事件―

 1939年5月、かねてより燻り続けていた満蒙国境問題がこの年ついに武力衝突へと発展。満州支援に関東軍が、モンゴル救援のためにソ連軍がそれぞれ兵を派遣し、両軍は国境付近のハルハ河にて衝突することとなった。
 当初は航空隊の奮戦もあって善戦していた関東軍だが、兵力に勝るソ連軍を駆逐することは出来ずに最終的には敗北。同年9月の停戦によって、ノモンハンから退くことになった。
 こうしてノモンハン事件は関東軍の敗北に終わった。しかし劣勢の中でも奮戦し、ソ連軍に多大な被害を与えた部隊も少なくなかった。宮崎繁三郎が指揮した歩兵第16連隊もそうした部隊のひとつだった。
 味方が次々と敗走する中でも同連隊は陣地を死守し続け、圧倒的な兵力を前に大きな損害を出しつつも戦闘終了まで全滅することはなかった。そして宮崎は占領した地域に自らの部隊名と獲得した日付を刻んだ石碑を埋めて、自身の活躍とその地を日本軍が勝ち取ったことの証明とした。
 宮崎の行動によって停戦協定は日本の有利に働き、国境策定作業に大きく貢献することが出来た。この活躍で宮崎は、ノモンハン事件で唯一の戦勝指揮官という名声を得ることになったのだ。

―インパールの悪夢―

 1941年12月8日、太平洋戦争勃発。開戦初頭は快進撃を続けていた陸海軍も、1943年に入ると連合軍の反撃によって劣勢に立たされることが多くなっていた。そうした状況下で立てられた作戦が、先に解説したインパール作戦である。
 数々の批判を押しのけ1944年3月に強行されたこの作戦に、宮崎も第31師団第31歩兵団長として参戦することになる。同師団はインパール攻略の要所であるコヒマの制圧を任され、イギリス軍の苛烈な反撃にあいつつも何とか善戦していた。しかし補給が不足している中での強行が災いして、第31師団のみならずインパール攻略に投入されたほとんどの部隊が餓えや弾薬不足で戦闘が困難となっていた。
 しかし牟田口は頑として作戦の中止を認めなかった。もはや全滅を待つだけとなった状況下で、第31師団長は戦闘の続行は不可能であると判断。宮崎を足止めに残して独断での撤退を始めてしまった。
 味方の楯とされた後でも第31歩兵団は勇敢に戦いイギリス軍を食い止めた。宮崎もまた、自ら進んで陣頭に立ち、自分用の物資を部下達に与えながら、撤退命令が下るまでの1ヶ月近い期間を戦い抜いたのである。また、撤退の最中においても所属を問わずに負傷兵を収容して、戦死者を見つけたら可能な限り埋葬することに努めていた。時には負傷者の担架を自分の手で担ぐこともあったという。
 そうした人道的な行いからか、宮崎はインパールで活躍しただけでなく、人情味に溢れた陸軍の良心としても慕われるようになった。戦後、インパールの帰還兵が声高に上層部の批判を繰り広げた中でも、宮崎の名が出た途端に怒りが鎮まったというエピソードからも、彼がどれだけ兵に慕われていたかがよくわかるだろう。

―寡黙な余生―

 からくもインパールを生き残った宮崎ではあったが、1945年4月のビルマ本格進攻を受けて、チグリス川(エーヤワディー川)にて防衛戦を強いられることになる。宮崎が指揮した第54師団は彼の巧みな用兵によって猛攻を何とか防いでいた。しかしここで予期せぬ事態が起こる。なんとビルマ方面軍の司令官であった木村兵太郎大将が、戦闘を放棄して逃げ出してしまったのだ。
 この司令官自らの敵前逃亡によってビルマ戦線の指揮系統は崩壊、何とか持ちこたえていた宮崎らもペグー山系に逃げ込まざるを得なくなり、7月に行われた撤退戦でも多くの死傷者を出してしまった。そして脱出先のシッタン川にて戦闘を継続している最中に終戦を向かえ、宮崎の戦争は終わったのである。
 戦後の宮崎はビルマの収容所に移されることになる。しかし彼は腐ることなく、部下を虐げるイギリス軍に面と向かって抗議するなど、軍人としての誇りを決して失いはしなかった。その後は終戦から2年後の1947年に無事帰国、日本へ戻った後は小さな陶芸店を営みつつ、静かな余生を過ごしていた。
 そんな宮崎も、1965年の夏に73歳で生涯を追えることになる。病床では意識が朦朧とする中何度も「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」とうわ言を漏らしていたと伝えられている。これはおそらく、ペグー山系撤退時に多くの部下を死なせてしまったことへの悔やみなのだと推測されている。
 宮崎はどんなに過酷な状況下でも常に最善を尽くし、どのような窮地に追い込まれても部下を見捨てようとはしなかった。そうした宮崎の能力と人徳は現在でも評価され、陸軍の良心として名を残しているのである。


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大本営より現地民を選んだ男 今村均

―武力による弾圧統治―

 1942年2月、資源獲得のためにインドネシアへ進軍した日本軍を、現地民は解放者として歓迎した。彼らが快く迎え入れた理由は、日本軍が民族の解放と独立を果たしてくれると信じていたからだ。
 しかしその願いは裏切られた。植民地解放はただの口実であり、日本軍の狙いは資源のみだったからだ。独立の願いは叶えられることはなく、日本軍は占領地を武力で服従させようとした。俗に言う「武断統治」である。占領地ではゲリラ炙り出しを名目にした奉公や略奪が相次ぎ、シンガポールでは終戦までに1万2000人もの華僑が日本軍に粛清されてしまった。
文化面においても、年号や時間は日本を基準に変えられて、公用語は日本語となり学校での教育が義務付けられた。建前上は植民地の解放だったが、蓋を開けてみれば支配者が欧米から日本に置き換わっただけだったのだ。協力していた義勇軍は日本軍の圧政に反乱を繰り返し、占領統治は要らぬ敵を増やすだけに終わってしまったのだ。
そうした中で唯一、武断統治を拒み、現地との友好関係を結んで良好な統治を行った将校がいた。インドネシアの独立家とも友情を育んだ陸軍一の仁将、その名は今村均中将である。

―ジャワ島の融和政策―

 今村は1886年に仙台市の判事の息子として生を受け、学生時代に観兵式の天皇行列に感動したことをきっかけとして軍人を志すようになった。
 1915年には陸軍大学校を首席で卒業。順調に出世を重ねていた今村は戦陣訓の作成にも関わり、温厚で人徳のある将として開戦前から兵たちから慕われていた。
 太平洋戦争が始まると、今村は第16軍の司令官として蘭印方面(インドネシア)攻略を任されることになった。1942年2月から始まった攻略作戦は、海軍の援護や落下傘部隊の活躍によって一ヵ月後には早くも蘭印最重要拠点であるジャワ島にまで迫った。約5万5000人の日本軍に対して連合軍の兵力は約8万。数字の上では劣勢だったが、現地の圧倒的支持を受けた日本軍は各地で連合軍を蹴散らし、わずか8日間で蘭印守備軍を無条件降伏させたのだ。
 こうしてインドネシア一帯を手に入れた今村だったが、今度は統治の方法について頭を悩ませることになった。他の将校であったら、先に説明したように武力を持って強引に統治を進ませていただろう。それが後にどのような結果を生むかも知らずにだ。
ところが今村は、武断統治ではなく融和政策を軍政の柱としたのである。手始めに今村が行った事は、連合軍に囚われていた独立運動家の釈放だった。釈放自体は他でも実施されていたが、今村はそれだけでは終わらず、日本軍を批難しない限りは自由な行動を認め、それどころか多額の活動資金すらも援助していたのである。そして民間人ならたとえ敵国の人間であっても自由に生活することが許された。住民や活動家との信頼を強めることこそが、良統治の秘訣であることを今村は知っていたのだ。

―大本営との対立―

 今村の政策は現地民に広く受け入れられた。後にインドネシア初代大統領となる活動家、スカルノは今村への積極的協力を約束し、民間人は日本兵を「ヘイタイサン」と呼ぶほどに親しくなっていた。年号改変や日本語教育は導入されてはいたが、現地語の使用を禁止してはいなかったので不評が賞賛を上回る事はなかった。今村によるインドネシア統治は成功の一歩手前にまで来ていたのだ。
 そんな今村に意外な敵が立ちふさがった。大本営である。武断統治を威厳ある行動として称賛していた大本営にとって、今村の融和政策は軟弱極まりないものに映ってしまったからだ。
いくら勧告しても言うことを聞かない今村に苛立った大本営は、最後の手段に打って出た。陸軍省軍務局長武藤章中将を直接派遣して抗議をしたのだ。ここで武藤の忠告を拒否してしまえば、それこそ上層部に真正面から逆らうことになる。大本営が今村に与えた最後のチャンスだった。それでも今村の決意は固かった。彼の下した決断は、武断統治を真っ向から批判するものだった。
「我が統治は陛下の御允裁を経た統治要綱に即したものだ。陛下の要請ならば服するが、陸軍省だけの変更には絶対服従しない」
 激怒した武藤は今村と数日間も口論を繰り返したが、今村が決断を撤回することは最後までなかった。大本営は、命令よりも現地民との絆を選んだ今村の解雇を決定。最前線のラバウルへと左遷した。後任の将校は大本営に従い武断統治を実施し、現地民を虐げ始めてしまった。結果、インドネシアでも抗日運動が激化して、スカルノも日本との敵対を決意してしまった。今村が築いた友情は、大本営の横槍で水泡に帰してしまったのだ。

―償いの余生―

日本人は人との和を尊ぶ心を美徳としてきた民族である。それなのに大本営、特に陸軍は軍の力を過信するあまりに暴力と恐怖によってアジアの盟主になろうとした。これでは諸国から反発されるのは当たり前である。
そんな中で最良の統治方を示して見せたのが今村であった。現地民の信頼を勝ち取った今村は、戦後において日本軍将校が次々と処刑されていった中でもスカルノたちの擁護のおかげで死刑を免れている。インドネシアの人々は、日本軍は恨んでいても今村との友情だけは忘れていなかったのだ。
そして今村の情念は部下達にも及んでおり、1949年に日本の巣鴨留置所へ移送されたときにも「部下達が環境の悪い南方に服役しているというのに自分だけが戻るわけにはいかない」と、マッカーサーに直訴してまでマヌス島刑務所への移動を希望していた。この部下を思う心はマッカーサーの胸を打ち、「真の武士道に触れた」とすぐに移動の許可を与えていた。
 1954年に全ての刑期を終えた今村は、東京の自宅に立てた小屋に篭って質素な生活を過ごした。軍人恩給のみを収入源とし、残りの人生を部下や戦死者遺族の救済に使った。その理由は、多くの若者達を死なせてしまったことに対する償いのためだとされている。
そんな今村は1968年10月4日にこの世を去った。享年82。大勢の部下や国内外の民衆から慕われ、余生の全てを贖罪に費やした将軍の最後であった。

北海道を守った武人 樋口季一郎

―終戦なき戦場―

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に無条件降伏した。しかし日本軍の戦いはまだ終わってはいなかった。
原因はソ連である。8月8日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍は即座に進撃を開始した。目的は、満州、朝鮮半島、そして北海道の占領と共産化である。条約は破棄後も一年間は有効とされていたので、日本軍は不意を突かれる形となってしまった。
8月15日を境に連合軍が戦闘を中止しても、ソ連軍だけは日本軍への攻撃を続行した。
「終戦とは降伏文書に調印されてはじめて成るものである」
この理屈の元に猛進を続けるソ連軍に対し、関東軍を軸とする北方方面軍は終戦後も戦闘続行を余儀なくされたのだ。
約75万人の関東軍は、山田乙三大将指揮の下に満州各地の要塞に篭って防衛を試みた。しかし精鋭部隊を南方戦線に引き抜かれ、装備も旧式しかない彼らでは、ドイツ軍相手に経験をつみ、最新鋭装備を揃えたソ連軍を食い止めることは不可能だった。日本軍はソ連軍に蹴散らされ、逃げ送れた民間人はソ連軍の暴行や略奪の前に次々と命を落とし、シベリアへと連行され、あるいは絶望に負けて自ら命を絶っていった。満州攻略の目処を付けたソ連軍は、北海道攻略の足がかりとして8月17日に千島列島侵攻を開始する。ソ連軍h兵力は約8300人。この野望を妨げるべく立ち上がったのが、樋口季一郎中将貴下の第五方面軍だった。

―北方を守る仁の将―

 日本人からだけでなくユダヤ人からも尊敬された将軍、それが樋口季一郎である。彼が尊敬を集めた理由は、1938年3月にまで遡る。当時、ナチスの迫害を逃れた多数のユダヤ人難民が満州国境へと押し寄せていた。しかし満州外交部はドイツとの関係悪化を恐れて彼らの入国を拒否。難民たちはソ連領のオトポールで足止めされてしまった。
 このことに憤りを感じたのが、ハルビン特務機関長の樋口だった。彼は親独派ではあったものの、ナチスが進める人種差別計画については嫌悪感を抱いていたのだ。すぐさま樋口は満州鉄道と交渉して特別列車を手配し、満州外交部と談判してビザの発行を認めさせた。この動きによって数多くの難民たちが、樋口に命を救われたのだった。この「オトポール事件」の顛末から、樋口は今村均中将に並ぶ陸軍の仁将として現在にも名を残している。
 太平洋戦争勃発後、樋口は北海道を守る第五方面軍(就任時は北部方面軍。1944年3月に改名した)の司令官に就任した。主戦場から遠く離れているため、アッツ玉砕やキスカ撤退戦い外に目立った戦闘はなく、第五方面軍は多数の戦力を残したまま終戦を迎えることとなった。
 8月15日の玉音放送は第五方面軍にも大きな動揺をもたらした。敵を欺くための謀略であると考える将校も少なくなかったが、翌16日に大本営から発せられた戦闘停止命令を前に、終戦は事実であることを知ることになる。
 しかし樋口の戦争はまだ終わっていなかった。武装解除の準備を進めていた8月17日、千島列島の占守島守備隊から国籍不明軍による攻撃を知らせる通信が届いた。樋口すぐに、攻撃がソ連軍の仕業であることを知る。ソ連の目的が北海道侵攻である事は明白。大本営から攻撃停止を命令されているが、素通りさせれば確実に北海道はソ連に蹂躙されることになる。指示を求める守備隊に対し、樋口は断固とした態度を持って命令文を打電した。
「断乎、反転に転じ上陸軍を粉砕せよ」

―8月18日の太平洋戦争―

 大本営は積極的戦闘を禁じてはいたが、自衛戦闘であれば18日までの続行を許していた。占守島を守備していたのは、第五方面軍第九十一師団の歩兵第七十三旅団を中心とする約10940人の日本兵である。
樋口から反撃の許可を得た守備隊は即座に反撃を開始した。最初にソ連軍と放火を交えたのは独立歩兵第二百八十二連隊だった。18日午前1時、竹田浜に防衛線を張った連隊は、上陸部隊に集中砲火を浴びせて大打撃を与えた。しかし装備に劣る日本軍は徐々に押されていき、ついには竹田浜を放棄して四嶺山の壕へと退避することになった。
 劣勢となった日本軍を救ったのが戦車第十一連隊である。戦車約60両を有するこの部隊は、別名士魂部隊と呼ばれる北方最精鋭の戦車隊だった。午前5時、島南部より出撃した部隊は山を包囲していたソ連軍を背後から強襲。戦車を用意していなかったソ連兵を次々と蹴散らし友軍の救出に成功する。四嶺山を死守した日本軍は、兵力を結集させて竹田浜奪還を目指して攻勢を強めていった。対するソ連も態勢を整えて日本軍を迎え撃ち、戦局は降着状態に陥っていく。
 ソ連の行動を知ったアメリカ軍と大本営はすぐさまソ連に停戦を求めた。しかしソ連は両国の要求を受け入れず、日ソ間で停戦交渉が成立したのは21日のことだった。
 日本軍は、大本営が定めた期限を過ぎても防衛戦を続けていた。21日となっても戦闘は止まず、日本が武装解除したのは23日になってからだった。日本軍の最終的な死傷者は約1000人、ソ連軍は約1500人。日本軍は最後までソ連軍に優勢を保っていた。
 ソ連軍の独断専行に憤りを覚えたアメリカは、ソ連に北海道侵攻を諦めるように忠告した。そして占守島攻略に手間取っている隙に、北海道への進駐を終わらせてしまったのだ。
 それでもソ連は諦めず、進駐軍に北海道の譲渡と樋口の身柄引き渡しを要求した。だがアメリカはその両方を拒否してしまった。こうしてソ連の北海道占領計画は夢へと終わってしまった。
 大本営に背いて18日以降も戦闘を続けた樋口らの行動は、他の連合国も戦闘を再開する可能性が少なくい危険な行為であった。しかし、もし樋口が戦闘を決断しなかったら、ソ連の北海道上陸が成功して、最低でも北海道の半分は確実にソ連のものとなっていたかもしれない。その危機を回避したのが樋口ら第五方面軍の奮戦だった。眼前の破滅を回避するべくあえて戦いを選んだ樋口の勇気が、北海道をソ連の魔の手から救ったのである。

ビルマ独立に貢献 飯田祥二郎


―華族出身のエリート―

 太平洋戦争当時、ビルマ(現在のミャンマー周辺)は日中戦争の勝敗が掛かった重要な地域であった。「援蒋ルート」と呼ばれる補給路が作られ、その道を使って連合国が中国軍に物資援助を行っていたからだ。
 陸軍は援蒋ルート遮断を目指してビルマ進撃を決断。日米開戦と時をほぼ同じくして、同地への攻撃を開始した。ここでビルマ制圧を任されていたのが第15軍。司令官は、飯田祥二郎陸軍中将であった。
 1888年8月8日、飯田は男爵の爵位を持つ飯田俊助中将の次男として生まれた。華族としての英才教育を受けながら成長した飯田は父と同じく陸軍将校への道を志し、1908年には陸軍士官学校を無事卒業。その後進学した陸軍大学校でも優秀な成績を修め、晴れて陸軍エリート士官の仲間入りを果たした。
 このときの同期には、仁将として知られる今村均や日本の首相として戦争に携わることになる東条英機もいた。そんな彼らと共に1915年に陸軍大学校を卒業すると、軍事課や教官職を転々としながら順調にキャリアを積み重ね、エリートの必須事項とも呼べるヨーロッパ派遣も経験する。
 だが、飯田がエリートコースを歩んでいる裏では、国際情勢は悪化の一途を辿っていた。1930年代になると陸軍は世界恐慌による危機を脱するべく満州事変を引き起こし、政府もまた、満州国建国への批判に対して国連脱退という選択肢を選び、世界からの孤立を深めることになる。飯田が少将に進級した1937年には、盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争が勃発、翌年には第一軍の参謀長として大陸へと派遣されることになった。
 しかし中国での活躍はあまりなく、飯田は台湾混成旅団長を経て、中将昇進と同時に内地へ戻る。そして南方軍の一角を担う第15軍の司令官に任命され、運命のビルマ攻防戦へと挑むことになるのである。

―ビルマ攻略戦―

 ビルマ攻略作戦は、開戦と同じ12月8日に開始されることになった。開戦当日になると、飯田ら第15軍は作戦の下準備としてタイに上陸し、タイ軍との小競り合いの後に同盟を結ぶとビルマへの本格攻勢を開始した。
 ここで陸軍に協力したのが、なんと日本に攻撃されているはずのビルマの人々だった。かつてのビルマは植民地としてイギリスの支配下に置かれ、各地で独立運動の火種が燻りつつあった。そこに目をつけた日本軍は、「南機関」と呼ばれる特務機関を組織し対英感情を煽った。その結果、ビルマの人々は日本軍を支持しただけでなく、12月28日には「ビルマ独立義勇軍」なる軍事組織を編成して、作戦への直接協力を申し出たのである。
 ただし、この義勇軍は第15軍隷下となった南機関の募兵で誕生した組織で、幹部のほとんどが日本人で占められていた。それでも独立を求めた多くのビルマ人が参加したことには変わりなく、道案内や陽動、補給の面で飯田らの行動を裏からよく支えていた。
 ビルマ人の協力を得た第15軍は、1942年1月に準備を終えてビルマ国境を通過。1
月中にビルマ南部のタボイとモールメンを占領すると、2月には早くもイギリス軍の防衛線が張られたサルウィン川・シッタン川に差し迫った。
 ところが、これを食い止めるはずのイギリス軍第17インド師団は日本軍の強襲に戦意を奪われ、大した抵抗をすることなくシッタン川の橋梁を爆破し撤退してしまった。敵の予想外の行動によって戦力を温存できた第15軍は、3月8日になるとビルマの首都ラングーンを早期に占領した。
 首都占領後はシンガポールを占領した第25軍からの援軍と協力しつつ北上を続け、開戦から約5ヵ月後の1942年5月末にビルマ全土の制圧を宣言したのである。
 ビルマからイギリス軍を駆逐した飯田は、各地に投獄されていた独立運動家達を次々と解放していった。そして独立運動家のバー・モウと協力関係を結び、彼を指導者とした軍政を敷くことに成功。これによってビルマ全土はイギリスから解放され、援蒋ルートの最後の一本を破壊することに成功した。

―崩れ行くビルマ情勢―

 ビルマ制圧を成功させた飯田であったが、42年の半ばを過ぎるとその栄光に早くも暗雲が立ち込めていた。
 当初、日本軍はイギリス撃退後の速やかなビルマ独立を現地の人々に約束していた。ところが、作戦が完了しても日本がビルマ独立を認めることはなく、軍政誕生後も自らに批判的な者を抑圧するなど締め付けを緩めることはなかった。
 これによって日本に協力的であった独立化の中にも軍の態度を疑問視する者が現れ始め、後の反ファシスト人民自由連盟成立の遠因になってしまった。その上援蒋ルートを破壊されたイギリス軍も空輸を用いて中国軍への支援を続け、改善されたはずの状況は悪化の気配を見せ始めていた。
 これらの状況を打破するために牟田口廉也中将が立案したのが悪名高き「インパール作戦」であるが、実はそれ以前にも「二十一号作戦」というほぼ同じ内容の作戦案が作られたことがあった。1942年5月前後のことである。
 だがこのときは、飯田と牟田口による反対によって保留に追い込むことが出来た。その牟田口が似通った作戦を立てようなどと、誰が予想できたであろうか。飯田はこのときも反対の立場に回ったものの、防衛総司令部付への転任が決まったことで廃案に追い込めず、ビルマ方面軍は戦力の多くをインパールで失うことになってしまった。
 ビルマから離れた後、飯田は中部軍司令部と予備役編入を経て満州方面の第30軍司令官となり、ソ連軍の捕虜となって終戦を迎えることになった。
 飯田や日本軍とビルマの関係は散々な結果に終わった。しかしこのとき結成された義勇軍は後のミャンマー軍の基礎となり、解放された独立運動家は戦後も独立を目指し、1948年にビルマの独立を果たすことができた。
 確かに日本軍の所業の全てを擁護することはできない。しかし飯田と第15軍の行動が、ビルマ独立の基礎構築に多少なりとも貢献した事実もまた変わりないのだ。

伝説の硫黄島攻防戦 栗林忠道


―見捨てられた孤島―

 無能、前時代的、頑固頭。
 そうした負のレッテルを貼られやすい日本陸軍にも、当然ながら名将と呼ばれる男がいた。その代表格が栗林忠道である。
 1944年7月、マリアナ諸島の奪還によってアメリカ軍は戦略爆撃機B29の活動拠点を得ることに成功した。日本本土空爆は11月より開始されたが、当初は大きな戦果を上げる事は出来なかった。
 B29の最大航続距離が約5230キロなのに対して、マリアナ諸島から東京までの距離は約2500キロもある。これでは往復だけで手一杯であり、確実に基地へ帰還するためには爆弾を減らして燃料を増やすしかなかった。もちろん護衛機をつけることも不可能だったので、迎撃されて被害が出ることも少なくなかったのである。
 そうした問題を解決する鍵が「硫黄島」にあった。硫黄島は小笠原諸島ある火山島であり、マリアナ諸島と東京のちょうど中間点に位置していた。占領できればB29の補給基地や護衛機の発着場として有効に活用できる。アメリカ軍が動き出すのは必然だったといえよう。
 日本軍も硫黄島の重要性を理解していたが、レイテ沖海戦の敗北で艦艇のほとんどを失った海軍にアメリカ軍を食い止める力は残っていなかった。軍部は硫黄島の死守は不可能と判断。現地守備隊は本土防衛のために捨石となることを宿命付けられた。見捨てられた孤島と化した硫黄島。その守備隊を指揮したのが栗林だった。

―不遇の将軍―

 栗林は元々騎兵隊の将校であり、軍歌として有名な愛馬進軍歌の選出者としても知られていた。しかしアメリカへの留学経験があった栗林は、騎兵はすでに時代遅れであることを知っていた。軍の機械化や戦術改革を提言するが中々受け入れられず、1940年にようやく日本初の機甲軍団「第一騎兵旅団」が誕生して司令官となるも、翌年の日米開戦によって南支派遣軍の参謀長に異動させられてしまう。
 それでも栗林は不貞腐れるとなく香港攻略作戦を指導して日本軍を勝利へ導くが、今度は広東(現中国広州地方)で地下要塞建設に従事した後、1943年に内地へ戻され留守近衛第二師団長に任命された。留守とはいえ、近衛師団は陸軍一のエリート部隊である。しかし
戦地での活躍を夢見る栗林にとっては閑職以外のなにものでもなかった。戦局に貢献できない日々に、栗林は周囲へ「戦地で死にたい」と愚痴を漏らしたこともあったという。
 しかし1944年6月、ついに栗林も戦場へ派遣されることとなった。その行き先が硫黄島を守備する小笠原兵団第109師団だったのだ。

―生き物が住めない島―

 硫黄島は東京から約1250キロの地点にある小笠原諸島の火山島だ。大きさは22キロ程度であり、擂鉢山以外は起伏のない平らな島だった。そして一番の問題が、島のどこからも水が湧き出ないということだ。当然作物は作れず、硫黄島は人が生活するのに適さない島だった。
 栗林は、硫黄島に着任するとき東條英機から直々に「アッツのようにやってくれ」と命令されたという。それは、アメリカ軍が硫黄島に侵攻する可能性が他界ということでもある。だが硫黄島には陣地に適した起伏が無く、下手をしたら艦砲射撃や空襲だけで全滅する恐れがある。悩む栗林をさらに追い詰めたのが、マリアナ・レイテにおける連合艦隊の壊滅である。島の死守が不可能である事は誰の目にも明らかだった。
 それでも栗林は挫けなかった。死守が無理なら可能な限り時間を稼ぐべく、長期持久戦術によってアメリカ軍と戦うことを決めたのだ。その方法が地下要塞の構築だった。硫黄島の岩盤は固く、掘り進めると硫黄ガスが吹き出る工事には適さない環境だった。しかも工業機材がなかったせいで、掘削作業は人力で行われた。ガスにやられて体調を崩す兵も多かったという。そんな兵士達を励ますために、栗林は自身の足で現場を回って指示を出し、兵たちと常に辛苦を共にした。しかし将兵一丸となった努力も資材不足とアメリカ軍の空襲によって実ることはなく、栗林たちは硫黄島要塞を完成させる前に敵の来寇を迎えることになってしまったのである。

―地獄となった硫黄島―

 アメリカ軍の侵攻は、1945年2月17日に始まった。日本軍の兵力は約2万人。アメリカ軍は約6万人であり、参加艦艇は100隻を超えていた。2日間の熾烈な艦砲射撃の後に、アメリカ海兵隊が進軍を開始。日本軍からの攻撃はまばらであり、海兵隊は無傷での上陸に成功した。
 その瞬間を栗林は待っていた。上陸が完了したアメリカ軍へ、日本軍からの反撃が開始された。地下要塞で砲撃に耐え忍んだ日本軍は、島中に構築された地下道を使ってあらゆる場所から襲い掛かった。アメリカ軍は物量と火力で前進を試みるが、攻撃は衰えることなく兵達は撃ち倒されていった。
 作戦前、栗林は「敢闘の精神」という戦いの心得を将兵たちに叩き込んだ。
「守備隊はゲリラとなっても戦闘を続行せよ」
「兵は一人十殺を心がけて敵に挑め」
といった6条の誓いを守った日本軍兵士は、どんなに苦しくなっても玉砕を選ばず、島を守るために死力を尽くして戦い続けた。
それでもアメリカ軍を押し戻す事はできず、圧倒的な物量を前に次第に追い詰められていった。3月16日、戦力の大半を失った栗林は総攻撃を決意。10日間ものあいだ機会をうかがい、26日早朝に400人の部下を率いてアメリカ軍陣地に切り込んだ。この攻撃によるアメリカ軍の被害は約170人。栗林らの戦死者は190人だった。栗林は自らも銃を持って果敢に戦い、激闘の末に戦死した。彼の死に様は諸説あり、負傷の末に死亡したとも、拳銃で自殺したとも伝えられている。
アメリカ軍は数日で硫黄島を占領できると考えていた。だが実際に掛かった時間は39日。死傷者数は約2万8600人を数え、日本軍の死者約2万人を大きく上回る結果になった。硫黄島はアメリカ軍が日本軍以上の損害を出した唯一の戦いとなり、栗林の名は今も英傑の名と共にアメリカ内でも語り継がれている。
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